2004年
2014年 02月 20日
私の場合、身体上の都合から、移動には殆どマイカーを使う派なので助かった。
昨日、その移動中の車の中で、ラジオからゆずの『栄光の架け橋』が流れた。
ソチ五輪のまっただ中だしね・・・。
アナウンサーがその曲がNHKのオリンピックソングとして世に出たのは「2004年」と言っていた。
今から10年前。
10年前を思い起こすと複雑な気持ちになる。
夫との結婚が決まってから今まで、夫から愛されていると思ったことはない。
ふとしたあやまちで子供が出来てしまい、
子供の父親である夫にいくら説得されても、怖くて中絶できなかった私。
結局責任をとって結婚してくれた夫。
互いに「子供の為」の大義名分の為に頑張って来た。
それでもまだできたてほやほやの家族だけの時は互いに助け合わねば生活が成り立たなかった為かなんとかなっていたし、貧乏ながらも幸せだったような記憶がある。
もう20年以上も前の話だし、
その頃はその頃で「貧しい」ことに悩んでもいた。
そんな夫婦の形が変わってしまったのは、夫の両親の指示で、夫の実家の夫の両親の家の庭に家を建てさせられてからだろう。
夫は遠距離通勤や単身赴任となり、私は3人に増えた子供を抱え、そりの合わない夫の両親となんとかうまくやっていこうと努力奮闘していた。
夫の両親の営みである農業の手伝いもしたし、パートにも出た。
父親である夫が殆どいない家庭ゆえ、子供達と遊ぶ時間も多く取れるよう苦心したし、出来合いのおやつは買わず、「母親の手作り」にこだわった。
多分、夫の両親に対する見栄もあったのだろう。
私は「頑張ってる」を見せようとしていたんだと思う。
でも「頑張ってる」は「普通」とか「当然」に化してしまい、
「精一杯」が私自身を次第に追いつめて行っていた。
「いっぱいいっぱい」になって助けを求めようとも、そこには夫はいなかった。
私は長男である夫の名代として「家を守る」だけの存在になり、
夫は「あっち向いてホイ」の状態の中、まずは長男の第二次反抗期が始った。
ストレスから体調を崩し、パートを辞めていたけれど、
同じように体調を崩してパートを辞めたご近所のママ友と毎朝ウォーキングをし、
まるで女学生のように転がるように笑いながら歩いていたのが2004年だった。
その1時間だけが幸せだった。
翌2005年に彼女は癌で亡くなった。
長男は遠方の大学に行き、
私の夫への不信感は拭いきれず、
喧嘩ばかりの両親に残る子供達も不信感からコミュニケーションをとらなくなっていた。
夫もどうしていいのかわからなかったのだと思うし、
私もどうしたらいいのかわからなかった。
わかっていたのは、確かにもうすでに何かが崩れてしまっているということだった。
なんとかぎりぎり踏ん張っていた2004年・・・いや、踏ん張れてなかったのかもしれない・・・いや、なかった。
それでも、彼女のおかげで2004年はいっぱい笑ったし、
あれから10年、あんなに笑えた年はなかったように思う。
それなのに、ラジオから「2004年」という言葉を聞くまで、私はもう彼女を忘れて日々を過ごしていた。
それを「申し訳ない」とは思わない。
時間とはそういうものだから。
2024年は何を思うのか?
そのまた10年後は?
そうして私という存在が消え失せてる年に、この場所だけがポツンと残されていることを思うと、
ちょっと不思議な気分になる。
2004年にまだ小学生だった長女が撮った一枚