老犬チャンプが散歩を嫌がるようになり、今週からは一人で、自転車に乗らず、歩いて不動尊参りをして3日目。
ちょっとしたウォーキングで、それが再び出来るようになったのは喜ばしいことなのに、
昔のように「楽しい」と感じない。
以前と違って右脚は痺れているし、それで歩行がぐらつかないように腹筋と背筋に力を意識して入れてることを差し引いても、
過去、あんなに気持ち良く汗をかき、楽しかったのは何だったのか?
公園でベンチで休んだ時、いつも隣にいたチャンプがいないせいか?
まだチャンプは生きているし。
「この夏が一緒にここを歩く最後の夏になるだろう。」と予感はしていた。
でも先週まで普通に一緒に散歩できていたので、なんとなくこのままあと数年こんな日が続くような気がしていた。
公園を歩いている時のチャンプはご機嫌だった。
「楽しい」を得たくて、サックスを吹いてみようか、と思うけれど、
親指付け根の変形性関節症(母指CM関節症)が痛くて、その痛みに耐えて演奏する勇気が出てこない。
毎日同じことを繰り返し書いている。
忘れて同じことを書いている訳ではない。
それじゃあ今度は認知症だ。
まぁ認知症かもしれない。
私ならそれもまたあり得よう。
何がきたって「今度はそれか」であきらめるしかない。
そんな癖がついてしまった。
「つらい、つらい」と話しをされても普通の人は困る。
「話しだけならいつでも聞くよ。」と私も昔はつい気軽に言ってしまったことがあるけれど、
皆何かしら背負って生きている。
他人の「つらい」に無料で根気強く耳をかせるだけの時間なんて無いものだ。
「いい加減にしてよ!」と怒ったことが私は多かった。
私にも私の生活がある。
その生活のリズムを壊されてまで、他人の「つらい」に耳をかたむけてもいられないのが実情。
それは家族も同じで、
家族だって外の世界で何かしらストレスに耐えながら頑張っている。
「家族」という関係に甘えて「つらい」をぶつけられても対応できない。
かと言って、いきなり部屋で首でも吊られてても困るのだけれど、
助けたくても助けられない。
母親を自殺で亡くしている私が、それは一番よく知っている。
「相談してくれれば助けられたのに」と思うのは、そうなって後のこと。
多分そうなる前に相談されても「私も今大変だから、頑張ってよ。」と言ってしまっていただろう。
でも「頑張ってよ」と言われても、「もうこれ以上どう頑張ったらいいのかわからない」から困って相談してくれているのだけれど、
素人には「じゃあ何を言ったらいいのか、何をしたらいいのかわからない。」が正直なところ。
今では「頑張れ」は言っちゃあいけない、と広まっているけれど、
「頑張らないでね」も、もし本人が「頑張って自殺を耐えている。なんとか踏みとどまっている。」という状態だったら、
その言葉は自殺を後押しすることになるかもしれない。
「もうつらい」
「行き止まり感がある」
「泣きそうな気分なのに涙が出ない」
「手が痛い」
「手の痛みを忘れてサックスをまた吹きたい。楽しみたい。」
「右脚が痺れる前に戻りたい」
「痩せたい。太ると今度は膝を悪くするのではないか、今度は膝が人工になるのではないかと怖い。」
「もう数ヶ月まともに会話をしていない娘と以前のようにコミュニケーションをとりたい」
「楽しいな、と歩きたい」
心の中に閉じ込めた想いを、口にするだけで、
そうやっていっとき背負ってる荷物を降ろすと、ようやく涙が出る。
不思議なことに、泣くと、「しょうがない。それでも前に進もう。」と少しだけ力が湧く・・・時がある。
魔法の言葉なんて無いから。
魔法は自分で自分にかけなきゃならない。
口にしながら、自分に効果がありそうな魔法を見つける作業を続ける。
特に私は今や殆どの薬が体質なのか合わなくて、痛み止めさえ使えない。
それって結構ビクビクものだ。
こないだまで「効いてる」と思っていた漢方薬も今は効果を発していない気がする。
それを思うと「行き詰まり感」が生じる。
そこから少しでも立ち直りたいと願う。