
今日は整形外科に痛み止めをもらいに行かねばならぬめんどくさい日。
内科にも定期通院で行かねばならず、そんなのでストレスが強かったのか?
昨日、夕方、突然2010年の3月のある記憶が蘇った。

地方のの大学院在学中の長男が就職活動で帰省していた時で、
夫ががんセンターから退院して間もなかった。

次男のパニック障害は随分と良くなっていたけれど、当時、衝動的に勝手に結婚した(2年半後に離婚)年上の女の子と二人働きもせず、近所に借りたアパートに二人でひきこもっている状態で、結局保証人になっているから生活費の面倒はみない訳にはいかなかった(請求の電話が私にかかってくるから(~_~;)。

高校生だった長女はマイペースが際立った子で、加えて、その頃は反抗期がひどかった。

私は、2008年5月の腰の大掛かりな手術後、普通に歩けるようになっていたのが、片道1時間半かけて3週間毎日がんセンターに通った無理がたたって腰痛が再発していた。

夫の両親は「畑仕事が忙しい」という理由で、義父は一度見舞いに来たけれど、義母は一度も顔を見せず「息子の面倒をしっかりみてやってよ。息子に死なれたらあんただって困るんだから。」と電話で吐き捨てただけだった。

手術立会いも私一人だった。

私は精神的にも肉体的にも疲れ切っていた。

長男の帰省に伴って次男も来て家族全員揃っていた時に喧嘩が起こった。
喧嘩の理由は覚えていない。
多分私がイライラしていたのだろう。

結果、私が追い出される形となった。
まだ寒い夜に行き場がなく、仕方なく東京駅に向かった。

家族の誰からも連絡がなく、メールしても無視され、切ない想いのまま、父が日本海に面したより寒い小さな村へ行くべく新幹線に乗った。
そこは父の出身地で、定年退職後父が移住しただけで、私の出身地でもなんでもなく、
雪国でありながら、父はひどい倹約家で、暖房器具と言えばこたつと小さな電気ファンヒーターだけだった。
その上、その日はアルバイトに行っていたのか?父には連絡がつかない状態だった。

家族からは無視されていたけれど、こちらが頭を下げるのもなんかおかしい気がしてできなかった。
そこまで自分を下にする必要が何処にあるというのか?
今考えてもうちの子供達はおかしいし、夫はもっとおかしい。
ただ、そういう人間に育ててしまったのは私だ・・・それは言い訳できない現実だった。

長い年月の間に私の役割は「我慢して頑張る人」になっていて、
家族の誰もがそれを疑わなかったし、
それが自然になっていた。

父の住む家のあまりの寒さに耐え切れず、結局私は3日で帰り、
以後小さくなっていそいそと働き、
子供達はまるで王子様お姫様のままだったし、
夫は自分のことでいっぱいいっぱいだった。

もう終わったことだ。
子供達も大人になったし、夫も当時の自分を反省している。
私はのんびりゆっくりと日々の生活を送れている。

なのに、クリスマスのゆうべ、突然蘇ったその時の記憶があまりにリアルで、私は悔しくて、腹が立って、
思わず玄関ドアのチェーンをかけた。

締め出された夫は近所のファミレスに避難していたけれど、
とにかく私は一人でいたかった。
誰ともしゃべりたくなかった。

結局夫には「私に話しかけないで。自分の存在感を消しといて。」で帰宅を許したけれど、
今朝もまだ夫と口がきけない。

自分勝手で、その自分勝手を通すために妻を、母を犠牲にする家族に腹を立てながら、
多分一番自分勝手は私だろう。

わかっていても自分をコントロールできない時はあるものだ。
だって私は人間だもの・・・┐( -“-)┌

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