親の本能と理性の狭間
2015年 01月 20日
昨日は今年初のアルトサックスレッスン。
緊張して朝からやたら汗はかくし、頭痛は始まるしで、なんか体に悪そうな感じがしないでもないけれど、
これくらいの刺激でもないとたるんだ脳みそが認知症まっしぐらになりそうだから、
月3回のこの緊張感は「私を若返らせてくれる」ものと大切に思っている。
しかし、初レッスンに備えての準備は、年末年始家族が居たことと、年明け早々体調を崩したことにより殆ど出来ず、
それだけにいつもより緊張感は強く、頭痛もひどかったし、勿論出来もひどかった。
しかし、年初ということもあるのか?
それとも「この人にこれ以上は望めない」とあきらめられているのか?
課題曲は一発合格となった。
複雑な気持ち。
確かに「これ以上」を望まれても、それでなくとも不器用で鈍臭い50半ばのおばさんが出来る訳もないのは事実。
3年頑張ってここまで吹けるようになっただけ、この私としては上出来だとは思う。
しかし、下手に耳だけはいいのと、3年やってきて、「ここはこう吹く」が分かっちゃってるだけに、自分がそれが出来ず、耳障りな音しか出せていないのが辛いのも事実。
それを簡単に「合格」とされちゃうと、
「とうとうあきらめられちゃったか( ー_ー)旦~」とネガティブな気分になり、嬉しい顔なんて出来ない。
勝手なものだが、期待は重いけど、あきらめられるのも寂しい。
まぁ自業自得だ。
そういや割と時間にルーズで、いつも前のレッスンが時間を押して、レッスン開始時間がどんどんずれていくのだけれど、
まぁ、師がレッスンの合間合間に喫煙タイムが必要なのもそれを手伝ってはいるのだけれど、
喫煙タイムを削ることは出来ないと見えて、レッスンを5分前に切り上げて、
次のレッスンを時間通りに始めるように努めることにしたらしい。
別に師の喫煙タイムに文句はないけれど、
「50過ぎたら癌になるよ。今は他人事としか思えないだろうけど、その時にすっごく後悔するし、家族も泣かすよ。」
と経験者は言いたい。
でも言ったところで「他人事」は変わらない。
どんな病気も事故も事件も、我が身に降りかかってやっとわかる・・・他人事ではなかったのだ、と。
ちなみに娘の交際相手が四国に実家があるそこそこ裕福な家庭の長男とわかり、
私としては結婚に至らないことを強く望む。
うちの娘に地方の長男の嫁なんて務まる訳もなく、苦労するは必至。
「家を継ぐ」で亭主が実家に戻り、ついていけば、私と同じ苦労をする羽目になる。
我が子を可愛がる親であればある程、どうしても「嫁」は「大事な我が子を取ろうとしている悪人」となり、親は我が子を取られまいと警戒し、防衛本能から敵意を抱く。
そこは熊と同じ。
子連れの熊は凶暴だ。
人間だからそこは理性で抑えたい。
でも、その理性は誰にでもあるものではない。
その人の世界が狭ければ狭いほどその理性は不安定。
「偏見だ!」と言われちゃうのを覚悟して言わせてもらえば、
私の経験上、地方は「地元から出たことがない」人が結構いて、世界が狭くて、その土地の風習に囚われて生きている人が多く、
それは決して欠点ではなく、
そう生きることでその土地の平穏を守っている。
そう、そこは平和なのだ。
それ故に「よそ者」は入りにくいし、
皆心の底によそ者が入ってくることに「平穏が乱されるのではないか?」という不安感が広がって、
最初のうちはその不安感を隠そうと親切にしてくれるけど、
長丁場となると、その不安感に疲れて「よそ者を排除したい」という欲求が湧いてくる。
その行為は「可愛い息子」「可愛い孫」の見ていないところで行われる。
「可愛い息子」「可愛い孫」には嫌われたくないから。
どこの地方もそうとは言えないとは理性的に考えれば思えなくもないが、
「愛する人と結ばれて結婚した」幸せだった花嫁が不幸になった姿を多く見てきた。
結婚は恋愛とは違う。
どうしても当事者の背後にいる「家」というものと関わらざる得ない。
若い時は「頑張ればなんとかなる」と思いがち。
でも人間関係は頑張ってもどうにもならないことが殆ど。
どうにかなるものなら、世の中から「いじめ」も「戦争」もとうになくなってる。
娘に私と同じ想いだけはさせたくない。
同時に、うちの長男の嫁にも私と同じ想いをさせる訳にはいかない。
大切な自慢の娘を遠方に嫁にやることになったご両親の気持ちは痛い程わかる。
故に、彼女を決して不幸にしてはならない。
かといって、自分がどうあるべきかわからない。
彼女にとっての姑としては初心者だ。
こちらも何もかもが初体験。
せめて「重い姑」にだけはならぬよう、常に理性的であらんと思う。