人間とペットの関係
2015年 04月 22日
先日、チャンプ(チワワ、雄)の狂犬病予防接種とフィラリア予防薬処方でかかりつけ動物病院へ行ってきた。
毎年ちゃんとフィラリア予防薬は与えているけれど、万が一ということもあるからフィラリア検査もした。
チャンプがもう高齢(11歳)ということもあり身体検査もひととりしていただいた。
心臓の左房弁が硬くなっていて動きがスムーズにいかないことから心音に雑音があることと、
肝臓と胆のうに異常が見つかった。
肝臓の細胞はまだ生きていることにより服薬で治療可能。
血液とエコーの検査により肝臓と胆のうの治療の方が優先され、今は毎日1日一回服薬中。
私の身体上の都合であまりかまってやれなくなったことからくるストレスから病気になったのか?と獣医さんに問う。
獣医さん曰く「年相応ですよ。人間だってどこも異常がない元気なおじいちゃんなんていない。まずはご自身の体を治されてください。」
私はドロップアウトしてしまったけれど、家族は皆最前線で活躍中で忙しくて、「かまってちゃん」の犬の世話はできない&したくない。
老犬ホームも考えたけれど、潤んだ瞳で見つめてくるチャンプを見ると「やっぱり私が頑張ろう」と思う。
それでも私の先は知れている。
今だっていっぱいいっぱい。
正直、あまり長生きされると、もっと可哀想な想いをさせてしまうだろう。
そこそこに、年相応に、苦しまずに、茶々(フェレット、享年7歳)みたいに「昼寝してたらうっかり心臓が止まっちゃいました」的に逝ってくれればいい。
今はただその犬性をまっとうさせてやるべく、もう少し頑張ろう。
生後半年のチャンプを迎えた頃は私も40前半で、人生の折り返し地点はすでに迎えていても、まだ誰もが幸せになる未来を信じて走っていたし、そんな日々が続くものと疑いもしなかった。
首の異常は発見されていたけれど、そんなに気にもとめていなかったし、腰痛なんて体験したことすらなかった。
申し訳なかったと今は思う。
「無責任」からだけは逃れたくて頑張ってはいるけれど、本当に私は無責任ではないと言い切れるのだろうか?
「可哀想」「可愛い」だけで動物を飼う人がいる・・・私もその一人だ。
幸い経済的困窮問題はうちにはなく、恵まれた環境にはあるかとは思う。
Facebookをやっていた時、「可哀想」で捨てられた犬や猫を引き取り、でも飼育にかかる費用に困窮し、寄付金を求める人を多く見た。
最初の頃は、私も「可哀想」で寄付もしたけれど、そのうち、その人たちが「無責任」の上に「優しさ」の服を着て見た目ごまかし、自己満足に浸っているように見えてきた。
そして私もその一人だった。
自分の器以上のことにチャレンジし、できないから助けを求める・・・それはいい。人は一人で生きている訳じゃない。助け合いはあってしかるべきものだ。
チャレンジした時はそれが自分の器以上のものだったとは気付かなかったのなら仕方ないのだから。
でも、わかっていたのなら、最初から「依存」があったのなら、そこにあるのは人間の傲慢ではなかろうか?
まぁそんなに深く考えると宗教や哲学の世界になっちゃうし、それさえも人間の業の上に成り立っているものだから、考えない方が正解だろう。
ただ目の前の小さな家族たちと過ごせてる時間に感謝し、今日があることに感謝すればいい。
せめて今手の中にある小さな家族たちそれぞれの「居場所」を最期まで守ってあげれるように努めよう。
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