不幸なニュースを見聞きした朝に思うこと
2015年 09月 28日
月曜の朝、普段はそんなに気分は悪くはないのだけれど、今朝はなんとなく元気が出ない。
夜中、ぐっすり眠れたのはいいのだけれど、中途半端な時間に目が覚めた。
5時半・・・それでもすでに7時間は眠っていた。
そのまま起きて活動するには、ちょっと早いし、でつい二度寝したのが良くなかったのか?
6時半の目覚ましアラームを消した後、しぶしぶ起きた。
大学生の娘が家出するまでは、6時には必ず起きていたが、今やその必要はなくなった。
その頃はその頃で、「自力で起きて、自分で勝手に朝食とって、勝手に学校に行ってくれればいいのに」と心の中では愚痴っていたけれど、
いなくなったらなったで、その「楽さ」がなんか虚しい。
人って「必要とされてナンボ」ってとこはある。
その上、今日はサックスレッスンの予定あり。
なんとなく、最近は、このサックスレッスンが、私の中で、左手指の「リハビリ」と化してきて、
「楽しいリハビリ」にするのは、一体どうしたものか?
「リハビリ」ってだけで気が重いんですけど・・・といったところ。
そりゃ、サックスを吹くのは楽しいし、平日は合間をみて吹いているし、吹くにもちょっと自分のレベルより上の課題曲を与えられた方が、モチベーションは上がる。
これは「ちょっと」もしくは「やや」に限る。
あまりに上のレベルだと逆にモチベーションは下がる。
長年「教える」ということを生計の糧にしてらっしゃる師にとっても、その「ちょっと」を探すのは苦労かと思われる。
「教える」って片手間で出来るような簡単なことではないよな、と教えられる側を意識できる大人になって、つくづく思う。
自分の生徒一人一人の力とか性格やその生徒がおかれている状況などをちゃんと把握していなければ、適切な指導は出来ないだろう。
そんなプロフェッショナルを誰もに求めるのは無理というもので、
それも1年や2年の付き合いで良い師弟関係を作るのなんて至難の技で、
全ての「学校の先生」にそれを求めるのもどうか、と思うが、
その「どうか」を克服すべく「修行中の身」が「先生」と呼ばれる人達かと私は思う。
と朝早々に思ったのは、「電車に飛び込んで高校生が自殺」のニュースが朝やっていたから。
事情はわからねど、その手で最近多いのは、やはり「いじめ」に代表される「人間関係のトラブル」によるもので、舞台は大抵「学校内」だったりする。
年頃の子供は悩みを親には隠す。
そこには「心配かけたくない」もあるけれど、プライドもあるし、「そんな格好悪い自分を知られたくない」という思いもある。
殆どの場合、親は気づかず、いきなり我が子に自殺されて、ただ途方にくれるのだろう。
「うちの子が自殺したら」と考えるだけで怖ろしい。
一人では子育ては出来ない。
子供の成長に比例して、その世界は広がるし、広がれば広がる程、親だけで子育てできるものではない。
周囲の協力は要るし、その中でも、子供がその時間の大半を過ごす「学校」では、教育現場にたずさわる人間に頼るしかない。
その教育現場に「プロフェッショナル」がどれだけ要るだろうか?
もし一人でもいて、その一人がまだプロに至っていない人間を育てることができたなら、
もしかしたら、いくつかの命は救えたかもしれない。
ただ、そういう時代ではないのなら、
今は「逃げなさい」、「逃げるが勝ち」、「生きてナンボの世界だよ」としか言えない。
「死ぬ勇気」があるならば、もうひと頑張りして「生きる勇気」に傾こう。
生きてさえいれば、やり直せる時は来る。
起死回生、逆転満塁ホームランはある。
誰からも必要とされてない人間なんていない。
自分を必要とし、自分を愛してくれてるヒトが、今の自分には見えていないだけの話。
「見える」「見えない」は、本人の脳が指令しているものだから、ちょっと今脳がバグっちゃって見えなくなっているだけの話。
不幸なニュースを見聞きする度、その当事者と家族の哀しみが見えて切なくなるようになったのも、年のせいかもしれない。
「自分もそんな年になったのだな」と、ふと無鉄砲だった若き日を思い出し、
娘を思い出す。
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