夫婦の愛と自分の目
2016年 05月 12日
実際の日本の夏はカラッとなんかしてやしない。
来月あたりから、ジメジメの雨の日が多くなり、一雨ごとにジメジメした暑さが訪れることだろう。
被災地となってしまった熊本は、食中毒が心配な季節となる。
日本中のほとんどの人が心配する中、義援金詐欺が横行しているそうで、注意勧告も出ている。
崩れかけた家から避難してる留守宅に泥棒が大活躍してみたり、
人の良心を利用して、どうせあぶく銭となってしまうだろう金をだまし取ったり、
あやつらには「してはいけない事」というのがないんだろうけれど、
もっと自分の人生を大事にして欲しい。
夫はストレスからか、顔にできたおできが炎症し、その菌が歯茎にまわったようで、
「歯茎が痛い」と痛み止めを服薬したり、冷やして寝たりで、今日夕方歯医者に予約を入れた模様。
夫がそんな状況なので、私が「痛い、痛い」と泣き言を言っている訳にもいかない。
そうなると、結構元気でいられるものだ。
なんだかんだいいながら30年以上共に生きてきたのだから、どちらかがへたばれば、どちらかが支えるように自然になっているのだろう。
夫婦って家族で、それは男女間の恋でも愛でもましてや執着でもないかと思う。
40代くらいまでは、男女間のエロティシズムみたいなものがなくなったら「ただの同居人」「形だけの夫婦」みたいな虚しさも抱えはしたけれど、
50も半ばになると、そういうもんじゃないんだな、と気づく。
女性として見れない、とか、
男性としてみれない、とか、
セックスしたくない、とか、
空気みたいな存在、とか、
そういうんじゃなくて、
ただただ大切な人なのだと思う。
ただただ幸せになって欲しい人なのだと思う。
そして、自分の最期に会いたい人なのだと思う。
相手が自分より先に逝ったのなら、迎えに来て欲しい人なのだと思う。
それが「夫婦の愛情」ってやつなんだな、となんとなく見えてきたような気がする昨今である。
もしかしたら、互いに他の誰かに憧れたり、恋をしたり、執着したりすることは今後(も)あるかもしれない。
だからって、夫(妻)を愛している気持ちは変わらないような気がする。
ならば、それでいいじゃないか。
ただし、「妻は空気みたいな存在だから」と言いながら、セフレを探しているシニア男性の理屈は、
妻に対しても、セフレになる女性に対しても失礼極まりないと思う。
そんな言葉でくどかれたら、「私はおやつか?ガリガリくんか?うまか棒か?」でグーで殴ってやりたい。
人間性を疑う。
もし私が誰かを恋人にするならば(相手の要ることなので、そこが難しい(⌒o⌒;A)、
せめて、鉄分補給&冷え予防の為に毎日おやつに食べているクルミにくらいにはなる相手を選ぼうぞ。
まぁ、こんなおばさんのクルミになってくれる奇特な男性もいないので、
本物のクルミ(素焼き、食塩&植物油不使用)をつまんでいるしかあるまいて┐( -“-)┌
昨日も約1時間半アルトサックスを吹けた。
入浴中も、湯船につかりながら、課題曲のリズムをとり勉強に精を出した。
いやはや、何が契機になるかわからないものだ。
貪欲に勉強しよう!という意欲が湧きだした。
とりあえず、先に課題として師に出されていたジャズスタンダードの曲集1冊を、
自分なりに「これ以上は今の私の力量では無理」ってとこまで仕上げてみようと思う。
あと、新しく出された課題の『リズム&エチュード』の1曲目だけ、徹底的に頭に叩き込もうぞ。
その目標を達成したら、師に「見てくれ、聞いてくれ」で電話しよう。
そうでないと自分が納得できない。恥ずかしい。
他人に自慢できる人生など送っちゃいないし、恥ずかしいことだらけだけれど、
それらはあくまでも「他人から見た目」ではそうだろう自分が思う、といったところのもの。
私の中の私の目から見て「恥ずかしい」はもう嫌だから。
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