タイトルは前回の続きとして「父の入院2」にしたけれど、
今は父からの県立がんセンター新潟で受けたMRI検査の結果を、父が一人で聞きに行っているので、
その連絡待ちで、入院中のことや退院後のことなどあれこれ細かく書ける気分にない。
本来ならば家族の誰かが付き添うべきだし、担当医からもそれを望まれている。
しかし、家族といっても、私と弟のみ。
父が戻った父の故郷には父の弟も姉もいるけれど、どちらも高齢だし、
父の性格もあって、どうも疎遠になっている模様。
そこのところも父は自分に都合の良いようにしか話さないので、本当の理由はわからない。
ただ、入院直後、私から連絡は入れ、「見舞いに行く」と叔父は言っていたけれど、結局誰も見舞いには来なかったそうな。
あれこれ癖のある性格の父、実の娘の私でさえ「なるべく距離を取りたい相手」だし、
弟の嫁にも嫌われ、わが夫も口には出さねど快くは思っていない人。
簡単に言えば、見栄っ張りで金銭トラブルが多い人。
実の父を悪くは言いたくないが、客観的に見て、「関わりたくない」と殆どの人に思われる事実は否めない。
今回の件も、がんセンターの担当医から「長丁場になる」と言われ、
そうそう私も弟もちょくちょく片道約4時間かけて父の様子を見に行けるものでもなく、
特に雪の季節は動きもままならない。
で、私の最寄りか弟の最寄りへの転院、そして引き取りを検討したけれど、
私の方は、夫の意見で、私の体では介護は無理&共倒れになるとのことで、「施設に入れる」となった。
冷静に考えて、夫の意見は正しい。
弟の方は、共働きで嫁の方が収入があるし、なんせ嫁の実家徒歩5分のマンションを購入し、何かと嫁の母親の世話になっている。
嫁の父は早くに亡くなっており、女手一つで子供3人を育ててくれた母親を嫁はリスペクトしている。
そしてうちの父を好ましく思っていないらしい。
引き取りは勿論拒否。
施設に入れるにも、父の年金だけでは利用料が足りず、足りない分を私の方と折半するにも「金は出せない」とのこと。
父自身も、定年退職後「人生の最後は故郷で」で戻ったこともあり、「故郷を離れたくない」という強い意志を持っている。
仕方なく、大急ぎで包括支援センターに連絡を取り、担当ケアマネージャーを暫定だけど決めていただき、
そこから父の住む地域を担当してくれている保健師さんや民生委員さん、介護用品レンタル業者に連絡をとっていただき、ご挨拶した。
また、その足で役所に赴き、介護保険の申請をし、父が入っていた共済の共済金請求手続きをしたり、
弟は、父が買い物に車を出さないよう、生協と契約し、生協でやっている見守りサービスも依頼した。
雪積もる中、足はタクシーになり、慣れない寒さと雪の中での移動は出費もさることながら、
その時は無我夢中だったから疲れも感じずに済んだのだろうけれど、
一通りの用を済ませ、こちらに戻った途端、私は体調を崩してしまった。
今日、弟は最初から「会社が今はこれ以上は休めない」で新潟に行けないことはわかっていた。
私の方は「行けたら行く」だったけれど、家族にも「その体では無理」でストップをかけられ、
自分でも「気持ちだけでは他を助けることは出来ない。それだけの力量が必要だ。」「そして私にはその力量がない。」と痛感する。
父には申し訳ないが、頑張ってもらうしかない。
父は、好きな事だけしてきて、女房に自殺され、貯金もなければ、人徳も失っている。
娘の私が何度も手術をしてるのに、一度だって見舞いに来たことも無ければ、見舞金どころか見舞いの言葉さえ無かった・・・逆に私からこずかいをもらうのを当然としていた。
手術入院前には、父が電話した時に私が留守だと心配するだろうと連絡していたのだけれど、いつも「そう」で終わっていた。
遠く昔は、高校から私は奨学金を取っており、高校&大学の学費も生活費も父は出していない。
長男である弟は「後継」ということで大事にされた。
私は父の見栄の為に高い偏差値と一流大学への進学を求められ、その上労働力だった。
しかし、今更、父を「自業自得だ」と責める気などない。
可哀想だと素直に思う。
父を許すことでしか、父と同じ人間になることを回避できなかった。
良い時だって過去にはあった筈。
幼い頃のおぼろげな記憶に、手を持って振り回してもらったり、くすぐって遊んでもらったりして楽しかったというのもある。
あぐらをかいた父の上に座ると、心も体も暖かかった記憶もある。
「しつけ」と称して手を焼かれた記憶、傷も残っているけれど。
私がそんな「しつけ」を我が子にしないで済んだのは幸い。
その幸いは、きっと可愛がってくれた記憶もあるからだと今は感謝している。
つづく・・・。