何もする気にはなれず、
結局、本を読み出した。
昨日、櫛木理宇(くしきりう)の『少女葬』を読み終えた。
「読み終えた」と言っても、読み出したのは一昨日から。
今日は、朝比奈なをの『ルポ 教育困難校』を読み出した。
老眼が強い私は電子書籍派。
寝室が真っ暗でないと寝付けない夫に、文句を言われずに読めるからでもある。
始めはiPad(一番最初に発売されたもの)で読んでいた。
容量がいっぱいになって困っていた頃に、
数年前、誕生日プレゼントとして、
夫がKindleのペーパーホワイトをくれた。
それも昨今はかなり重くて、なかなかページがめくれないことが多くなっている。
他人と話すのはあまり得意ではないし、
メールのやり取りをしていても、すぐ相手から返信が来なくなり、それっきり。
けれども、他人と話すのは私は嫌いではない。
話してて嫌だ、と思う人はそりゃいる。
おそらく、私が他人にとっては「嫌だ」と思う対象なのかもしれない。
思い込み?
う〜ん、なんとなく空気で。
空気は読めるつもり。
しかし相手が求める&期待する言葉を自分が発していないから、相手が去って行く・・・それは空気が読めると言うのか?
読めないから、相手が求める言葉を発せられないのか?
子供の頃からこんな感じで、「寂しい」と思うことは多々あったと記憶している。
同じような友達数人と地味に存在していた。
きらびやかな子達とは縁がなかった。
彼女達にほのかに憧れはあったけれど、自分がそうなれるとは想像すら出来なかった。
今にして思うと、私と私の数少ない友達は背中に「寂しい」をしょっていたかと思う。
きらびやかな子達にも「寂しい」はあったのかもしれないけれど、
その光で隠すことが出来ていた。
あれから何十年も経った。
夫はきっと「きらびやかな」人間の類だろう。
高校時代、軽音楽部にいて、プロになりたくて進学先を東京にしたそうだ。
もともと東京で生まれ育った私には、そういう感覚は全くわからない。
東京にいたって有名人に会うこともないし、
何らかのきらびやかなチャンスに恵まれるなんてこともない。
「きらびやかな」部類の少女達はどうだか知らねど、
その他大勢の地味な部類にはそんな光は当たらないし、
そんな概念すらない。
夫と結婚した頃、日本人はすごく働いていた。
どこもかしこも今で言う「ブラック企業」で、それが「普通」だった。
「普通」だと思っていたから、それでうつ病になる人もいなかった。
いや、いたのだろう。
けれども、その人達に目を向ける人なんていなかったから、話題にもならなかったし、
もちろんニュースやワイドショーで取り上げられることもなかった。
過労死も同様。
中学時代の同じく地味な友達のお父さんが突然死した。
ちょうど高校受験の時期で、
彼女のお父さんは大手銀行マンで、まだ30代。
夜寝ている間に亡くなったそうだ。
彼女はずっと「高校は私立」と言われてきたし、
第一志望は有名なお嬢様学校で、大学までストレートに行けるところだった。
お母さんは専業主婦・・・当時は家庭の事情がなければ、普通は専業主婦だった。
銀行の社宅は「2ヶ月以内に退去」せねばならなかったそうな。
「過労死」なんて言葉もなかった時代だから、今みたいにその後の家族の生活を守るお金が出ることもなかったと思う。
いよいよ本番前にして、「志望校を都立に変更するように」と親戚に言われ、
彼女はとてもショックを受けていた。
中学の帰り道、2〜3時間、道端で愚痴を聞かされたことを記憶している・・・寒くなかったのかな?
大人の都合に振り回されることに反発していた彼女に「そうだよね」と共感しながら、
「母子家庭で貧乏になるんだから私立なんて無理だよ。都立に進路を替えるのが正解だよな。」
と思いつつ、口には出さなかったのを覚えている。
この秋、夫が定年退職をし、そのまま嘱託社員として会社には残った。
仕事内容は変わり、営業となった。
責任ある立場ではなくなるし、第一給料だって新入社員と同程度だ・・・新入社員のように上がる希望はない。
代わって、ようやく夫婦らしい時間がもっと持てるようになるかと私は期待していた。
贅沢はしなくていい。
若い頃のようにはもう飲み食いも出来ない・・・すぐ胃がもたれる。
子供達3人も皆独立し、シニア夫婦が2人っきり。
それも、いつ片割れが先に亡くなって1人ぼっちになるやもわからない・・・ずっと先か、はたまた明日か。
しかし、夫はより忙しくなってしまった。
忙しさに追われ、最近ではようやく労ってくれて、ゴミ出しなど家事を手伝ってくれていた時間は消えた。
夫の趣味は変わらずゴルフで、
私の体はゴルフは医者から止められている・・・一緒にゴルフを楽しむことは出来ない。
「忙しい」に見合った収入はなく、
もしどちらかが長生きしちゃった時のために、
貯蓄にはまだ手を出せない・・・「人生100年時代」と巷では騒いでいるし。
ようやく一緒にいられる時間が長く持てる、とちょっとばかし期待していた分、
「気晴らし」に使えるお金が無くなった分、
また背中に「寂しい」を背負ってしまった感覚がある。
以前に、「寂しい」を私は「心の問題」とここに書いた。
「心の問題」だと今でも私は思っている。
誰かが悪い訳ではない。
その「心の問題」を解決する力が、今の私にはなく、
静か過ぎる時間が流れている。